実話映画「あなたを抱きしめる日まで」感想記録
この映画は色んな側面の要素が折り合っていて考え深いです。
カトリックの家庭に育っても個人の選択はあるのになぁー。
成長と共に芽生える性の衝動って自然な事。
わたしの家も宗教が元にある教育だったから共感するわー。
秘めた思いに焦点を合わせて"ことば"にすることで動き出す。
出会いがあって、行動して、様々な考えが行き来する、思いやりや感情に正直になること、思いを伝え合うこと、拒絶、強行、誤解が溶けていく、そして赦し。この赦しは深いわー。
敬虔に守る戒律が正しい訳ではない、その正しさが守っているのはいったいなんだろうね、、
赦しを聖職側が選択するに至らなかったことが、両親とわたしの間にある事に類似していて、両親も宗教の教えに従わないわたしは間違っていると思うようで、ちょっとした悩みを話すと勧誘してきます。赦せないんだろうな。
神や仏は戒律を伝えたいわけではなんだよね、教えを伝えようとした時代背景やコントロールや個人の解釈が意図的にまた無意識に盛り込まれているとわたしは感じていて、その意図的もしくは無意識に教えの中にあっても本質に氣づけると、そこから離れて自分を生きることに意識的になれる、そして必要な事が次々とやってくると思うんだよね。
更に興味深いのは、映画の背景、時期や公開が、チャクラエネルギーのシフト期から定着期にはいっていること。
チャクラシステムが移行したのだから、これまでの沈黙は表面に出てきても不思議はない。
多くの宗教は禁欲は自分に向きあう機会を奪って、氣づいていくプロセスを止めてしまうことで目覚めさせない支配的な意図を持っているとわたしは理解していて、これまでの分離(二元性)の間は良かったかも知れないけど、統合(一元性)に入った今はこれまでのやり方が通らない事を意味しているんだよね。
妄信的な信心は人を傷つけていることに氣づけないのかもしれないと感じます。
各個人それぞれの人生プロセスがある。
氣づきのプロセスも様々な形で表れてくる。
いいも悪いもなく表面化。
必要なことは、葛藤を知り、ジャッジメントを止め、この2つを起こす根底にある正しくある必要性に氣づくこと。
結局、向き合っているのは出来事から自分の内側で起こることなんだもの、そこに氣づく事が自分を信頼していくことになっていって人生を豊にしていくと思うのです。
出来事を個人的に捉えないようになるまでの道は苦しいことも多くけどね、わたしは氣づきのマニアなので潜在意識に沈んだエネルギーを見つけるの愉しくてしょうがないです🤭
何を信じていても引き寄せられる法則は動いているんだって映画を観て思ったのでした。
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